寄り道だらけな30代の生き方奮闘記 

コロナで国境が!?仕事と家を手放し、カバン一つで緊急帰国した話。日本での日々、そして今。

エッセイ

2020年の3月29日。
一時帰国を秋にしたばかりだったので、たった6ヶ月ぶりに京都の街に帰ってきました。
どこか安心した表情と、疲れ切って、少し悲壮感の漂う顔で。
そんな日から、もう早2年がたちます。

コロナって、何それおいしいの?

新型コロナウイルスのニュースを初めてオーストラリアで聞いたのは2019年の12月のクリスマスあたりだったか、年明けだったか。
日本とは季節が真反対な夏のオーストラリアで、波の音を聞きながらのBBQやビールと共に1年に1度の祝日ムードを楽しんでいました。

当時、夜に働いていたブリューワリー(ビール工場兼レストラン)で働いてた私。中国に新設備の確認をしに行く予定のあったオーナーに「おいおい、大丈夫かいな。まぁ、そのうち収まるでしょ。」なんて同僚たちと話していました。どこか遠い国のお話、そんな気がしていました。

あれよあれよと日本でのプリンセス号のことが報道され、自分の身は心配せずとも家族や医療機関で働く友人が心配になりました。あんなに母親に細めにメールを送ったことは人生であのときぐらいかも。日本は累計1000人以上。オーストラリアは遠い町で1人出たか出ていないか。今帰っても、日本の方が感染確立が高いしこっちにいるね~。なんてのんきに話してたのが3月上旬。ヨーロッパでは、かなりの感染が広がっています。

私のフラットメイト(同居人)はニュージーランド人。歳も同じでまるで昔からの友人のようにすぐ仲良くなりました。彼女とも、「どうする帰る?でも、家もあるしねぇ。オーストラリア、全然発生してないもんね~」なんて。

友達やその家族、ご近所さんとしたクリスマスパーティー

オーストラリアも規制がかかる

日本ではいよいよ市中感染が広がっていきます。
記憶は定かではないけれど、ヨーロッパでは「ロックダウン」という聞きなれない言葉を報道するようになってきました。
2020年7月から渡航予定だったカナダもロックダウン。国際便の減少など、海外在住のものにとって心穏やかでないニュースが続きます。

そして、3月半ばを過ぎたころ、お隣の国ニュージーランドが国境をしめました。ヨーロッパの対策をみての英断。発生がないに等しい段階でのロックダウンです。

日本と海外の違いは、なによりも政府の決断と実行までのスピードが速いこと。
もちろん、良き悪しきはあるかもしれませんが、日本のように、「緊急事態宣言の検討に入る」「緊急事態宣言を〇日より発令することを決定する」「緊急事態宣言を行う」などのように数日かけながら行う政策ではありません。
必要と思うことは、すぐに発令されます。そして罰金のようなペナルティが課されることもほとんどです。

当時働いていたレストランでも、マネージャーが「政府からテーブル間隔のルールが発令された」と発表されば、16時でも20時でもテーブルを間引きしなければいけませんでした。

そこからは、
・カフェやレストランなどでは原則現金の使用禁止
 (もともとキャッシュレスの世界なので、ほとんど困ることはないのですが、高齢者も利用するようなスーパーや薬局は現金の使用が認められました)
・店内は人数制限、そして家具の配置にルールあり
(薬局でもどこでも、〇平方あたり〇人といった厳しい決まり。バーではカウンター片手に店の前で立っている人がいます。)
・Myカップの禁止
(コーヒー文化が根強いオーストラリアではたくさんの人が自分のタンブラーを持参してコーヒーを買いに来ますが、接触が増えることや、衛生的な面で紙コップのみになりました。)

そしてこれらのルールが制定された翌日には、
・店内での飲食禁止。全店舗テイクアウトのみ。になります。

この時点で、どの飲食店も必然的に人員削減。まずは学生のバイト達からカットされますが(親の扶養があるため)、カフェとブリューワリーで働いている私には死活問題となってきました。

国際線がなくなるだと!?

そして、ついに州境が閉鎖されることになり、他国へのトランジット(乗り継ぎ)で日本に帰る便はもちろんのこと、東京への直行便ですら3月31日以降に飛ぶかわらかないという事態に。
同じ島国であるニュージーランドがロックダウンしたこともあり、オーストラリアも実施間際まで迫りました。

これらの変化は3月18日から21日ほどの間で起こっています。
17日には、「まだオーストラリアのほうが安全よね~。」なんてフラットメイトと喋っていたのに。
食料品を買いだめしておこうと、スーパーで山ほどかったところだったのに。
21日には、連日、小麦やトイレットペーパーがなくなるニュースが報道されていました。
お国柄的にマスク=病気の人のイメージがあり、一般の人はつけません。そもそも普通には売っていないので、手にしている人は珍しいぐらいでした。
そのせいで、身を守るためにマスクをつけている人VSマスク=症状がある人と思いマスクを非難する人で喧嘩が勃発しているのも何度かみかけました。
オーストラリアはもともと移民の国。アジア人がいることが普通でもあるので、ヨーロッパに滞在している人ほど辛い思いをしたことはなかったですが、日本人の私は居心地がいいとは言えない雰囲気でした。どこか、やっぱり、なんとなく知らない人は警戒している雰囲気を肌で感じます。

国が警戒モードに入り、国際線断絶まで来ると、さすがにもう気が気でない。
レジで注文をとっていても心ここにあらずといった感じです。
ついに22日、帰国を決意。私のいるクイーンズランド州からシドニーのあるニューサウスウェールズ州までの国内線。そして、シドニーから東京へ戻る国際線のチケットを手配します。
…ぎりぎり片道10万円ちょっとで買えたけど、その次の便は40万円ほどしていました。
便がなくなり需要が高くなるって怖い。
フライトは3月28日の土曜日。

23日には、オーナーに土曜日に帰国することを連絡。シフトはもともと減らさなければいけない状態なので、迷惑にはなりません。それだけはよかった。
有難いことに、日本に帰れば看護師の資格が活かせます。仕事には困らないので、月曜日を最後の出勤にし、少しでも私のシフトを他のスタッフにゆずることにしました。

買いだめした保存食

生きた心地がしない1時間

24日の朝6時に目が覚めた時、航空会社から州境閉鎖による私の国内線のキャンセルメールが。
まだ頭は半分寝ている状態でパニックになったのを覚えています。


シドニーまで飛べないと、日本に帰れない!!!

ちなみにオーストラリアの国土は広く、大阪から東京の感覚で州境を車での移動はできません。電車何てもちろんありません。
そもそも、車での移動も規制がかかり、原則その州に住民票があるもの、もしくは何らかの急を要する理由があるもののみ飛行機での移動が行えます。

国際線はキャンセルになっていないとのこと。
だとしたら、土曜日までにニューサウスウェールズ州にはいっておかなくては!!!

そこから、航空会社に電話をかけます。
気が気でない…もう、誰も私に喋ってくれるな状態です。

長い、長い、保留音。順番があるので、切るわけにはいきません。
たった10分が1時間のように感じました。
…と言いたいのですが、本当に1時間経ちました。
1時間以上保留音を聞き、終わりが見えない…と半ば絶望しているとき、ようやくオペレーターの方の声が。

もはや半泣きで、国内線の手配を進めてもらいます。
水曜日(翌日)か木曜日(翌々日)になら、手配ができるとのこと。

え!?明日!?何の準備もできていないけど!?

と焦る時間も惜しく、「何かあったらだめだから1時間でも早い方がいい」という友人の助言もあり、翌日のフライトを取りました。

数時間のさよならタイム

ここからはもう嵐です。
まずは、明日から土曜日まで泊まるホテルの手配。もう何があるかわかりません、そして国の決断に猶予はないので、最悪タクシーでも空港に移動できる場所にホテルをとりました。

そこからまず、値段で勝負している大きな生活用品量販店に、スーツケースの代わりになるようなものを買いに行きます。

いつか、このお話も面白おかしくかければいいのですが、なんせ、オーストラリアには機内持ち込み(総重量7㎏以下)の荷物だけで入国したので、バックパックもスーツケースもなかったのです。
飛行機に預けられる荷物は確か30㎏。荷物を別便で郵送することはどうなるかわからなかったので諦めました。大きな大きなボストンバッグに詰めれるだけ詰め込みます。
心から、ミニマリストでよかった。そう思った瞬間でした。
パッキングはとりあえず終了。必要最低限のものはなんとか詰め込めました。

扇風機やちょっとしたリクライニングのイスなどは、友人に売るかもらってもらうかで処分をお願いしました。
トイレットペーパーや買いだめしていた食料品は、欲しい物全てもらってもらいます。

夕方、海を散歩して、数か月だけどお世話になったお店に挨拶にいくことに。
シドニーのホテルで飲んでね、って自家醸造のビールをくれます。

当時のお家は徒歩1分でビーチ。公園で夕暮れの写真をたくさんとりました。

最後の散歩道

いよいよシドニーへ。

そして翌日、イギリスからの友人キャロリンがブリスベン空港に送るため車で迎えに来てくれました。
フラットメイトとその彼氏、そしてキャロリンに囲まれたとき、涙が次から次へとあふれ出します。

移住すると決めて5年前から頑張っていたのに。
今、とっても有名なバリスタの元で働けていたのに。
4月には旅行の計画立てていたのに。

頭ではわかっています。何よりも健康が大事なこと。
そして、この未曽有のパンデミックには家族といた方がいいことを。
帰国を最後まで悩んで、決断したのはやっぱり家族でした。
世界中の方々に散らばっている日本人の友人、昔からの友人。今までにないくらいたくさんの人に連絡をとって、悩みに悩んでいた私の背中をおしてくれたのは、
「国境が閉鎖して、もしキキになにかあったとき、お母さんがこれないのは悲しむと思うよ。」
その一言でした。
母に何かあった時、私が帰れないリスクは想像していましたが、この一言はやっぱり刺さりました。
私の思いを知っているからこそ、「帰ってきなさい」とは言わない母。
それでも帰国を伝えた時の、安心そうなメールは忘れません。
30手前でも娘は娘だよね。

それでも、それでも、まるで子どものように泣きじゃくり、ようやく落ち着きなんとか笑ってさよならができました。

私が家をでるということは、フラットメイトが家賃を全負担しなければいけません。彼女はエッセンシャルワーカーだったので、仕事は減りはしなかったですが、それでもかなりの負担です。何週か分は負担することを申し出ました。

そして移動の自粛がある中、空港まで送ってくれたキャロリンにも感謝です。パートナーがが医療関係で働いていることもあり、私のためにこっそり手袋数枚とマスク数枚をもらってきてくれました。

たくさんの人に支えられながら、クイーンズランド州を後にしました。

オージーのカンガルーとニュージーのキウィちゃん♡

見えてきたオペラハウス

シドニー空港は着陸間際にオペラハウスが見えます。
窓際のシートがとれた私の目には、久しぶりの世界が移りました。
5年前はこの街に住んでいたなぁ。

無事にホテルにチェックインして、友人たちに、そして日本の家族にもメールをいれます。
あの血の気が引いた火曜日の朝のことがあるので、シドニーを出るまでは心が落ち着きません。
どうせいくところもなく3日間缶詰めなので、少しいいお部屋をとりました。
ソファも、ちょっとしたテーブルも、そして小さいキッチンもあるお部屋です。

ホテルは広いお部屋をとって正解。少しストレスから解放されました。

近くのスーパーに買い出しに行き、帰りに心を落ち着かせるためにコーヒーを買って、部屋で雑誌をよんだりネットフリックスをみたり、あっという間に3日間すぎていきました。

シドニー発は夜の便。空港にいっても、ラウンジも何もあいていないので、それならばと思いもう1泊分のお金を払いギリギリまでいることに。
これは、我ながら英断だったと思います。空港のイスに座って10時間ほど待つのは辛い。

空港ではたくさんの警備員がソーシャルディスタンスを監視しています。
たとえば3人グループなど、お話に夢中になって互いの距離が近くなれば、すぐさま笛をふかれます。
そして、列の距離もきちんと1mほど話されます。
便はほとんどなくて、荷物を預けるためにならぶ列も必然的に長蛇になり空港の端っこから端っこにいくほど。
ANAなのでもちろんほとんど日本人ですが、きっと引っ越しなんだろうな、という段ボール5箱ぐらいの家族もちらほら見かけました。

人の分だけ、ストーリーがあるんだろうな。

最後の夜。ホテルの最上テラスから。

ただいま、日本。

10時間ぐらい飛んだでしょうか。
ようやく東京につきました。
この時ほど「ようこそ、日本へ」の文字が刺さることはありません。
でも同時に、安心感もあります。もう、大丈夫。

日をまたいで3月29日になっています。

ここから伊丹へと向かいます。私はまだギリギリ、公共交通機関を利用して自宅に帰ってよい時期、そしてオーストラリアからの帰国は隔離義務もなかったため、伊丹空港から京都へと自力で帰ることができました。

ただいま、京都。


母に指定した、最寄りの駅ではきれいな桜が咲いていました。
春に帰国することがなかったので、5年ぶりの日本の桜です。
青い空とのコントラストがとってもきれいで、思わずパチリ。

ようやく、少し安心できました。
日本に着いたら、泣いちゃうかも。と思ったけど、意外にも涙はでません。
サンシャインコーストで枯れちゃったかな?

ストーリーはまだ続く…

この2年間にたくさんのことがありました。
面接で「あんたプー太郎?」と言われたこと。
素敵なご縁でとっても有名なコーヒーのお店からオファーして頂いたこと。
それでも、もう一度医療職を選んだこと。
久しぶりに「産婆さん」に戻れ、赤ちゃんとママに関われること。
もう二度とないと思っていたけれど、もう一度母と一緒に住めたこと。

…今では、親友ララ氏と素敵なご近所生活を送り、仕事にも恵まれています。

だけど、ビザの問題もあり、国境があいたところですぐに行きたい国に行けるわけではありません。
24時間英語の環境も離れ、やや衰えを感じることがあります。5年間積み上げてきたものが、消えてしまいそうで、指の間から流れてしまいそうで辛くなることもあります。

最後にいたのはオーストラリアでしたが、移住しようと目標にしていたのはイギリス。
イギリスでの暮らしを聞くと、胸がチクっと、そして少しシャットダウンをしてしまうこともあります。

何度も本棚に戻したのに、何度も本棚にもどっちゃった。


いつもなら買わない本、買ってみました。
イギリスの暮らしを聞くと少し辛くなるけど、ページをめくると「わかる、わかる!」の世界が書かれています。

私にはハードルが高く、でも楽しかった火曜日のクイズナイト。
フットボールの試合の日は町中から人が消え、みんなどこかで観戦していること。
出会ったら時の挨拶は95%以上、まずは天気の話をすること。
誰かれかまわず「My Love」と「Sweetheart」をつけること。

この本に書かれていた日常は、私が楽しんだ日常でもありました。
帯に書かれている一言は、私がヘッダーに選ぶほど大切にしているフレーズだったのでつい惹かれちゃったのかも。

まだこの本をそっとしまう日が来るかもしれないけど、でも、少しずつ「どうやったら現実になるか」を考えていきたいと思います。

いつかイギリスに帰れたら、この本をそっと手放して、自分の本を作りたいな.*

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